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文化・芸術

2010年1月 4日 (月)

律令の司法

律令の司法
捕亡令
(強盗・窃盗・傷害・殺人などの現行犯)
・犯罪の告言受けた官司「随近官司」(すなわち犯罪発生地点にもっとも近い官司(A国で発生しても国庁の距離がB国の方が近くであればB国が告言を受ける))がまず犯人を追補拘禁して、その後に審理を開始する。

獄令
(生命・財産・身体の侵損にかかわる事件および緊急を要する事件に適用)
・告言を受ける官司が「事発処官司」(すなわち犯罪発生地点を行政上の管轄区域としている官司(上記の例ではA国が告言受ける))が犯人を追補拘禁して、その後に審理を開始する。

犯罪発生→随近の兵士あるいは人夫を率いて犯人逮捕に赴く

公式令
(財産の帰属、良賤の別、譜第の正統性に係わることなど、どちらかといえば民事上の事件あるいは急を要しない事件について適用)
・原告の訴状を受けた官司は被告人を召喚するのみで拘禁せず、仮に被告人が出頭しなくとも審理が開始される
・訴状の受理→被告人の召喚→審理→裁判
・10月1日~翌年3月末日まで訴訟受理
・官司の統属関係を越えて直接上級官司に越訴することが禁じられている

裁判

行政官司は犯罪人を逮捕拘禁し、あるいは訴状を受理すると、ただちに裁判所となって審理を行い、一定期間内(徒罪以上は40日内)に判決を下す。

獄令に定める手続き(京および在京諸司において犯罪発生)
・官司内の犯罪→その官司→推断(審理し判決を下す)
・京内の犯罪→左右京職→推断
・判決が仗罪以下ならば「当司決」つまりそこで刑が確定→その官司が刑を執行する。
・判決が徒罪以上→刑部省に送る→刑部省の推断→徒罪→そこで刑か確定。
 流罪以上→太政官に申送される
・衛府が京内巡視で摘発した犯罪者
 その者の本貫が京内→左右京職。その者の本貫が京外→刑部省
・地方において発生した犯罪
 推断→郡司→笞罪判決→郡司が直ちに刑を執行する。杖罪判決→国司に送付→国司これを覆審→杖罪・徒罪および流罪ではあるが、杖罪に換刑すべきもの、あるいは贖を徴すべきものについては、国司が刑を執行し又は贖を徴する。流罪以上→太政官申送

流罪以上
 国司・刑部省→太政官→書類審査→判決正当→天皇に奏上。
                       判決不当→却下→国司・刑部省に再審査
判決文には根拠として律令の正文明記

・官人・・・官人の非違の検察は官人の所属する官司がそれぞれ個別に行うのが原則。この任に当たるべき者とされたのは判官。
・中央
  中務省内礼司(大同3年(806年)弾正台に併合)→宮廷内での官人の非違を禁察する官司(禁察=犯状を省に送るのみ。中務省は刑部省に送る。もし事大なら弾正台へ直送し奏弾(弾正台が官吏の不正をあばき、重大なものについては奏上すること))
  弾正台→宮城内外および左右京を巡察して非違を糾弾する官司
  五衛府→各部署の警衛
・弾正台・・・主な任務は行政諸官司が看過した犯罪あるいは行政諸官司の行った断決に疑義のある場合にこれらを摘発し、また官人の害政および抑屈(法をまげて処断すること)についての告発を受理すること

公民・・・各級地方行政官司→警察権を行使
 ・京→坊令に姦非を督察。京職は所部を糾察
    (督察=調べて取り締まる。糾察(=検校(調査し考え合わせること))
 ・里長→非違を禁察
 ・郡司→郡の事を検察(獄令に定める手続きを参照)
 ・国司→所部を糾察(獄令に定める手続きを参照)

2009年12月30日 (水)

正月に関係する神様。年神

・大年神(大物主=天火明)
 毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる

・年徳神(としとくじん、とんどさん)とは方位神の一つで、その年の福徳を司る吉神である。年徳、歳神、正月さまなどとも言う。

 ほとんどの暦では、最初の方のページに王妃のような姿の美しい姫神の歳徳神を記載している。歳徳神の由来には諸説あり、『簠簋』では、牛頭天王の后で、八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるとしているが、これはでたらめであるとの批判もある。また、牛頭天王が須佐之男尊と習合したことから、その妃の櫛稲田姫であるとも言われる。

・饒速日尊[ニギハヤヒノミコト](素佐之男尊[スサノオノミコト]の第五皇子)は大歳神とも云い、其の末子伊須気依姫[イスケヨリヒメ]を御年神とも云う。神武天皇の妃になられた方である

・大歳神(おおとしのかみ)  五穀の神  正月の「年玉」=「年霊」。門松に宿る神様

・御年神(みとしのかみ)  として尊崇される。 お正月様  年神様。お年玉の語源の神様。大歳神の子

・若年神(わかとしのかみ)  家内安全・健康長寿・商売繁盛の御神徳が高い。大歳神の孫

・大年神の子供達(一部)

・伊怒比売(神活須毘神の娘)との間に
 ・大国御魂神  国(土地)の御魂の意と解説されている、その点からもこの土地の守護神
 ・韓神 大己貴(おおむなち)・少彦名(すくなぴこな)二神をさす
 ・曾富理神  大物主神
 ・白日神 白鬚大明神=猿田彦大神(さるたひこおおかみ)
 ・聖神 皇宝国家守護神 信太明神 聖は「日知り」、暦の神様と考えられています

・香用比売との間に
 ・御年神(向日神)
    饒速日尊[ニギハヤヒノミコト](素佐之男尊[スサノオノミコト]の第五皇子)は大歳神とも云い、其の末子伊須気依姫[イスケヨリヒメ]を御年神とも云う。神武天皇の妃になられた方である

  ・御歳大神には兄弟がおられ、長兄が宇摩志麻治尊、次兄が天香山尊(高倉下尊)で  ある。

  ・御歳の歳はニギハヤヒ=大歳の歳を継いでいるといわれる

  ・御歳神は伊須気依姫、あるいは高照姫とも呼ばれ、記紀の中ではでは比売多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)などと呼ばれている神様で、神武天皇の正妻である。

2009年11月 7日 (土)

戦国時代の用語

発向・・・大将軍の命令によって、多くの大将が出かけること
出陣・・・その日に限って敵国に赴くこと
出船・・・船の出陣のこと
船陣・・・海路を航海している間
一軍・・・12,500人を指して言う
人数いくら・・一軍以下の場合
軍勢・・・立て札などには5,000人の人数の時、軍勢と書く
手勢・・・5,000人より少ないと手勢と書く
侍大将・・50騎以上を預かる武将は、侍大将と呼ぶ。
 ・この大将が戦場に赴くときには、雑兵を5・600人も従えるべきである
 ・たとえ人数を1,000人も2,000人も従える大将であっても、その者が主君に仕えていれば、侍大将という
騎馬武者・・騎馬武者を20騎も30騎も預かるほどの武将には、必ず弓や鉄砲の足軽を50人100人と従わせるべきである
足軽大将・・たとえ騎馬武者を44・5騎も預かるほどの人であっても、むその武将を足軽大将と呼ぶ
物頭・・・弓や鉄砲の足軽を20人、30人預かる者を言う
正兵と奇兵・・正面から敵に攻撃をしかける勢を正兵と言う。この正兵を助けて横合いなから攻撃する勢を、奇兵と言う。
 ・孫子に言う、およそ戦いとは、正によって向かい、奇によって勝つ
 ・正は敵に当たり、奇は傍らに従い守備することなく攻撃する。
 ・正道によって戦に向かい、奇変によって敵に勝つ
白歯者・・・中間とか草鞋取りなどの、一度も具足を身に着けたことのない者を言う
出法(ずんぽう)武者・・具足を着けながらも、指物をしていない者のこと

                                      合武三島流船戦要法(村上水軍船戦秘伝)より

縄文土器の謎 つづき

http://www.rekishi.info/forum/forum100/20091003160528.html

謎については上記の歴史SIGに載っているので、ここを参考にしてください。

なお航海用船の調査は、していないとのこと。今は、遺跡中心に発掘調査を

しているためです。

 航海用船の発見されるとイイですね

2009年10月 3日 (土)

縄文土器の謎

縄文土器の謎

1.土器には個人差がない
 ・地域差は多少ありますが、東日本から出てくる土器に差異は無いと言います。
2.土器には絵がない
 ・文字がないのなら絵や抽象画で表すと思うのですが、土器にはない。
3.小笠原で縄文土器が発見されている
 ・いったいどうやって小笠原まで行ったのか?丸木船で行けるものなのか?

・土器製造工場は、まだ発見されていないらしいですからどうやって同じものを作ったのか。
・国家が無いとされていますから共通の製品を作れた理由が知りたいですね。
・土器だけではなく、装飾品に穴を開けるのは石を錐状に加工して開けたと言いますが、結構すごいですよね。Photo_3 Photo_4

2009年9月27日 (日)

荘園内の階層

A 在地領主層(公文、下司、地頭)
 ・1荘、1郷に1~2人
 ・20~数10町歩の耕作(小作・小経営を多数含む)
B 地主的名主層(下級荘官)
 ・農民の小経営としては過大
 ・10町歩前後
 ・農奴主経営
 ・従者をもつ
C 農民的名主層
 ・安定的小経営
 ・百姓等代表
D 小百姓層
 ・自主経営
 ・1町歩~5反以下
 ・自己の名耕地
 ・A~C層の小作地・荘園の直属地(一色田・荘官給田)・神寺田の季節的・補助的労  働力
E 所従・下人層
 ・名主層以上に隷属する
 ・名は保有しない
 ・自己の経営を持たない者や自立的小経営(D層とほとんど変わらない)

農民的小経営として自立→C・D→農民

公文・下司→受領名(河内守等)
名主→判官(3等官)

惣領(名主。公文鳥居河内守)-同名衆(名主同姓者)-給人衆(村名や字名を冠する者)-被官(名主姓内某。例として鳥居之内源兵衛)

名主(名=農民の保有地)
 ・名内の有力者の1人が補佐された。
 ・名の年貢・公事(労働力)をとりまとめて納付する徴税請負人と同時に、名内の特定部分の耕地の所持者でもある。
 ・名主は徴税義務の反対給付として名内諸耕地から、年貢以外に加地子を徴収する権限を与えられた。
 ・加地子が売買・寄進→加地子名主職。売買価格=8~10年分の収益

15世紀後半の職の分化による収穫物の分配例(田1反の本斗代1石2斗の内訳)
領主米1斗(本所役(本役))-加地子名主職米3斗(加地子分)-作職米8斗(作徳(小作料))-小作人(直接耕作者)

作職も売買対象となります。

2009年9月26日 (土)

戦国時代のイメージ  国人・侍・軍役衆

国人衆・・・荘官と言ってもイメージがわきませんが、私なりのイメージだと郡程度の領主。石高で言うと2~3万石程度。侍大将クラス。

侍・・・名主のうち年貢を全免の代わりに軍役につく者。

軍役衆・・・まず当時の土地制度から説明させていただきますが、荘園制において年貢(税金)は申告制でしたので、脱税もあるわけです。1国の中でも土地の保証人は、荘園領主毎でしたが、戦国大名になると土地保証人は戦国大名のみとなります。戦国大名は、それまでの荘園領主と納税者との契約は無効とし、土地を調査します。その結果増税となりました。その増税分は侍は全免。名主を含む農民は増税。その増税分を免除する代わりに軍役につくことになったのが、軍役衆となりました。

年貢も軍役もどちらも税金です。律令では租庸調雑徭という税金がありましたが、農民(当時の一般人)は、兵士になると庸雑徭が、免除されましたが、衛門府の衛士になると全免となりました。農民に衛門を名乗る人が多いのは、脱税目的の人もいたからです。武士の時代になると土地領有を保証してもらう代わりに軍役につきましたが、年貢(税金)は払いました。これが戦国時代になると土地保証と免税両方となるのです。

これは私のイメージなので、間違っていたらごめんなさいm(_ _)m

2009年9月 8日 (火)

八路軍 その2

第八路軍共産匪団編成(地域ごとの遊激戦専門)
黒馬隊
 ・司令部
 ・第一大隊(200名、小銃100、軽機3、馬匹20)
 ・第二大隊(150名、小銃100、軽機3、重機1、馬匹100)
 ・第四大隊(120名、小銃30、軽機1、手榴弾70、青竜刀30)
 ・第五大隊(50名、詳細不明)
 ・第六大隊(80名、小銃70、軽機4、馬匹7~8)
 ・第十一大隊(80名、小銃50、馬匹3)
 ・第十三大隊(80名、小銃20、軽機1、馬匹3)
 ・特務総隊(500名、小銃400、馬匹200)
広霊県遊撃支隊
 ・第一大隊~第五大隊(350名、小銃87、軽機2、手榴弾180)
蔚県遊撃隊
 ・第一大隊~第三大隊(280名、小銃100、手榴弾20)
共産第三十五軍
 ・詳細不明(900名、小銃900、軽機7、迫撃砲4)
袋岳鎮地区第八路軍遊撃支隊
 ・第一支隊~第五支隊(約500名、小銃150、軽機1、手榴弾250、青竜刀30)山西軍管区第二遊撃隊
 ・第一支隊~第六支隊(1310名、小銃1300、軽機10、手榴弾6700)

新四軍
 華中にある共産軍主力で、通称「紅軍」と呼ばれていた「中国革命工農紅軍」を改変して「国民革命軍新編第四軍」通称「新四軍」が編成され「国民政府軍事委員会」の指揮下に入っています。

新四軍(装備はすべてソ連製の小火器)
 ・総司令部
 ・第一支隊~第七支隊

1個支隊
 ・支隊本部
 ・4個大隊
1個大隊
 ・4個中隊
1個中隊
 ・中隊本部
 ・4個小隊
 ・1個機関銃小隊

2009年9月 4日 (金)

第八路軍編成 その1

昭和12年8月22日北中国に存在した北支共産軍(4万5千)は、国共合作により国民政府軍事委員会の指揮下に隷属する「第八路軍」に改変された。昭和12年9月12日国民政府軍事委員会の命令で、「第18集団軍」に名称が改変されたが現地日本軍では、終戦まで「第八路軍」と呼ばれていました。

参考
  軍/路軍=軍、師=師団、旅=旅団、団=連隊、営=大隊、連=中隊、排=小隊、班=分隊

昭和13年10月時点で、大本営陸軍部が掌握している第八路軍編成表です。

・八路軍編成(山東、山西、河北を主要作戦地域)

  正規師(国民政府軍事委員会隷属)
   第15師、第120師、第129師
  准正規師(共産党政治部直属)
   第32師、新編第137師
  独立師(直轄部隊)
   第1~6師
  共産匪団(地域ごとの遊激戦専門)

・正規師第120師編成(約8千名)
  師司令部、無電班
  第358旅
   第714団、第715団、第716団
  第359旅
   第717団、第718団、第719団

 ・1個団約14百名
   団本部、3個歩兵営、1個迫撃砲連(迫撃砲2門)
 ・1個歩兵営
   営本部、4個歩兵連、1個重機関銃連(重機関銃4挺)

・独立第6師編成
  司令部、政治部
  第16団、第17団、第18団
   重機関銃連(重機関銃3挺)
  迫撃砲連(迫撃砲3門)
  通信班(騎兵約30)

・独立第6師第16団編成
  団本部
  第1営、第2営、第3営(各3個連編成)

・独立第6師第16団 各連の編成
  連本部
  第1排
   排指揮班
   第1班(12名、小銃12)
   第2班(12名、小銃12)
   第3班(12名、軽機2)
  第2・3排(第1排と同じ)

・共産匪団編成  その2へ続く

参考・・・光人社「もう一つの陸軍兵器史」藤田昌雄 著

2009年9月 1日 (火)

大奥 その2

御次 
大奥の定員について・・・3役について、なぜ3役のみかというと、他の役の内容がわからないからです。^^;)

年寄 3人、中ロウ 8人、御次 10人で、将軍・御台所それぞれにいたわけで、江戸後期になると役職者だけで少なくとも350人ぐらいいたそうです。他に役職者の下女がそれぞれつきますので、全部で1,000人ぐらいとなるわけです。

本題です。
・仏間や御膳・茶道具類の管理。催し物のときなどは遊芸を披露 ・八石、三人扶持大奥で、御次は御目見以上なので、中臈予備軍的存在となっています。
将軍の目にとまり中臈に出世、夜の相手をして世子を生めば玉の輿。日本版シンデレラ物語ですね。

お美代の方(専行院)
 お美代の方はもともと中山(千葉県、中山競馬場が有名です)の智泉院日啓の娘。当時法華宗の僧は妻を持ってはいけません。したがってお美代の方は破戒僧の子ということになります。しかし、この坊さん他に二男一女を儲けていますけど。
 お美代は、最初は中野播磨守清武の屋敷へ奉公に出ていましたが、美貌で利口な娘だったので清武が自分の養子にして、文化3年(1806)大奥へ御次として奉公させたのです。清武は大奥の年寄たちにはちゃんと手を打っていたので、お美代は評判がよかった。
 文化7年、お美代は将軍家斉の手が付き、同年10月、溶姫を出産。文政10年(1827)11月に前田斉泰(金沢藩主)に嫁に行き、この時前田屋敷に建てた御守殿門が今の東京大学の赤門です)以後浅野安芸守斉粛(広島藩主)の室になる末姫を生んでいます。
 この家斉は、徳川の光源氏といわれ、側室20数人を持ってました。(1・2度手をつけたのを入れると50数人といわれます)この家斉の時代は、華美を極めました。
 この頃「三佞人」と僭称された若年寄林肥後守、御側衆水野美濃守、小納戸頭美濃部筑前守の三人が家斉のお気に入りで、この三人に取り入れば官途に就く事が出来ました。
 天保12年(1841)10月5日、智泉院日尚が処分されました。いわゆる智泉院事件です。日尚は、お美代の方の実兄光住(日量)の子で、この時彼女の実父日啓は遠島を申し渡された。罪状は、田尻村の後家「りき」との女犯である。ただし、この二人は牢死したので、刑の執行はされていません。2人同時に死ぬということは、明らかにお美代の方の立場を考えているのではないかといわれています。とにかくこの事件は、「りき」と旅篭屋長兵衛下女「マス」(日尚の女犯の相手)を押し込めにしただけで落着しています。  お美代の方は、実父日啓のために、中山法華寺・智泉院を将軍家の祈願所にするべく、あらゆる工作をしている。中山智泉院は、大奥女中の祈願が後を絶たなかった。
 享和3年(1803)に起きた延命院事件(僧日潤が処分されただけで大奥女中たちは処罰されなかった)も、みんな忘れ去って、男子禁制の大奥のことであり、祈願とか代参りの時だけ女たちが女として行動できました。
 当時、大奥女中たちの息抜きには、こうした寺院があてがわれていて、寛永寺とか増上寺でさえ、若くて美形の小姓を用意して、代参にくる奥女中をもてなしました。
 そして妊娠してしまった女中たちの胎児・嬰児の処分も、これらの寺院で行われていました。
 寺院は、大奥に取り入るために、強力な地盤づくりをしていたのです。
 日啓(法華宗)の目的は、上野寛永寺(天台宗)や芝増上寺(浄土宗)と同じように、将軍の御霊屋を建てることにあったようだが、それには大奥の女中たちを味方に付けることが先決であった。
 日啓親子は三代続いた女犯坊主であり、奥女中を喜ばすにはお手の物でした。奥女中たちも、将軍家の祈願所であり、お美代の方の一族であることで、気兼ねなく出かけられるという利点もありました。寺社奉行の阿部伊勢守正次も、智泉院がどんなことをやっているかを知っていましたが、お美代の血縁と言うことで、手が出せませんでした。
 天保12年閏正月7日、大御所家斉が69歳でなくなると同時に、お美代の方の権力も失われました。前述の「三佞人」の若年寄林肥後守、御側衆水野美濃守、小納戸頭美濃部筑前守は天保改革を断行したのです。
 家斉没後、智泉院と同時に破壊された感応寺も、お美代の方の力で建てられた法華寺でした。
 日詮が初代住職となり、大奥要職だけではなく、将軍一族重臣たちも参詣していました。
 この日詮も大奥女中を引きつけるために美男の僧を集めて女たちの相手をさせていました。
 特に年寄の瀬山、御台所付きの花町の二人の行動は目に余り、このために瀬山は天保11年6月24日永のお暇となりました。
 幕府は感応寺の取りつぶしだけで、日詮は処分されませんでした。
 お美代の方は何とかして、法華寺を幕府の祈願所としようと努力したのでしたが、かえって日詮のために法華寺と幕府の縁を絶ちきってしまいました。 

絵島事件 
 絵島は堺町市村座の看板描き達磨屋三郎兵衛の娘といわれ、幼名を初音といいました。
若竹左平治に踊りを習い、相弟子の小妻、小橋とよく、御台様のお慰みに江戸城に呼ばれていました。その時の踊りが気に入られて、大奥に奉公することになりました。
 そこで武士の仮親が必要なので、御家人白井平右衛門を兄として届けだしました。
初音は利口でしっかり者だったので、お末からお仲居、火の番と出世していき、宝永6年(1709)生類憐れみの令の綱吉が死に、家宣が甲府から6代将軍となりました。
この将軍のお気に入りの側室が、お喜世の方で、嫡男の鍋松(7代家継)を生んでいます。
このお喜世が初音を、異例の大抜擢で自分付きの年寄に取りたてたのです。
 この時初音29歳、「絵島」と名乗り400石をもらう身になりました。普通50石ですからその8倍、すごい待遇ですね。しかし、いくら給料が良くても使うところがなければいけません。
 一応御用達の商人もいましたが限度があります。そこで考えたのが、徳川家菩提寺への参拝の進めです。 だが正室や側室が出かけるとなると行列が大変です。そこで代参です。その名目だけの代参列を城外で待っていたのは、商人たちでした。川柳にも「片道を清浄で行くお代参」「お代参ついでにほっつき歩くなり」「お代参転んで帰るせわしなさ」
大奥に入って13年、今やお喜世の方をしのぐ権勢がある上に、正徳2年(1712)10月、在職4年で家宣が死に、鍋松が4歳で将軍になると、お寄与の方が将軍の生母となった為、絵島は大奥だけではなく表の政治まで容喙するようになりました。
 将軍は10歳くらいまで大奥で養育されることになっていて、側用人間部詮房が大奥に出入りするのはやむをえませんでした。
 この間部が美男のため、後家となった月光院(お寄与の方)とできちゃいました。それを見ていた絵島も血が騒ぎ、御用商人の後藤縫之助に命じて、ご代参に名を借りて観劇と、その芝居のスター生島新五郎との密会を計画させたのです。
 正徳5年正月12日この日は家宣と綱吉の命日とあって、月光院の代参として絵島が、芝の増上寺に、同じく中臈の宮路が寛永寺に参詣して、その後木挽町の山村座で落ち合い、観劇しました。この時後藤の手配で2階桟敷を貸し切り、絵島がその中央に座って酒盛りを始めました。これでは見物中の庶民からも丸見え、その上運の悪いことに、お徒士目付が臨検にきていて見てしまったのです。
 翌朝、組頭に報告書を提出、それを受けて組頭はお目付けに提出、ついに事件は公になりました。結果、死一等を減じられて信州伊那郡高遠へ流罪。
 中臈宮路他当日ともをした女中たちもはしゃぎの程度により、処罰され、生島新五郎も三宅島へ流罪となりました。
 江島は60歳をすぎた寛保元年(1741)にこの世を去りました。

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